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執筆者の写真WBCラボ

【コラム:D&I】ダイバーシティ(多様性)とは(5)…人権編②

前回は、人権目線のダイバーシティ(人間平等という考えが人権目線のダイバーシティである)とお伝えしました。今回は政治経済と人権の関係について考えていきたいと思います。


2021年現在、政治経済と労働の面で見ると、人材活用のトレンドはダイバーシティ活用(ざっくり…多様な人の個性や特性を受け入れ活かそうとすることで、働きやすさや企業価値、多様な顧客へのサービス向上、社会意義へ繋げる動き)となっています。


人が企業に従属するというより、人と企業の共通する目的(企業理念や社会意義など)のために対等であろうとする、ということです。個人の存在がより強くなっている印象で、人権目線のダイバーシティと労働経済の人材活用は今は近い主張をしているのですね。



しかし、第二回で述べたように、10年、数十年とさかのぼれば、政治はまったく違うプロモーションをしてきたことがわかります。



いわく…


「女性も男性も労働者(農業等第一次産業時代)」「職業婦人ブーム(戦前)」「戦争へでかけた男性の代わりに、国家持続させる労働力を女性が担う(戦中)」「女は家庭へ帰れ/専業主婦(戦後)」「企業戦士/健康な男性を対象とした献身的な働き方/女性は会社と運命を共にできない(高度経済成長期)」「雇用機会の平等(1970年頃)」「性別、人種、年令に関わらず多様な人が働くダイバーシティ戦略(2001年、バブル崩壊直後)」「2020年までに女性管理職比率30%(2003年)※」「女性活躍推進基本法(2015年)」「働き方改革およびストレスチェック法案(2018年)」…

※19年末時点で女性管理職比率は17%


もう懐かしい言葉になりつつある『働き方改革』は、バブル崩壊後からうつ病性疾患にかかる人が毎年増加し続けたことによる医療費の逼迫と、欠勤・早退・休職・離職、ストレスによる生産性低下による経済損失(損失の直接・間接費用の総額は2008年で約3兆900億円:2011年慶応大学)が大きな理由だといえます。私の身近には、激務で精神的にギリギリであったところ、ストレスチェック法案で助かった省庁勤務の友人もいますし、効果があった部分もありますが、動機としてはある意味、お金的の視点での『働かせ改革』と言えるかと思います。



とくに資本主義社会では、何らかの要因が経済(景気)や国家予算の「数字」に大きく悪影響をきたすとき、政治はそれを防ごうと動きます。人権ベースはあくまで理想としながらも、金額として出てくるところにどうしても意識が向いてしまう。それは合理的であり、経済が動くことが豊かで平和な社会を保つための最も基本的な要素でなので、必然ではありますが、「経済への悪影響が特になければその問題は重視されない」というところが、おそらく資本主義で政治経済のできる限界です。



例えば市民の間で昨今賛同の動きが高まってきた選択的夫婦別姓制度が進まないのも、性別に縛りのない婚姻制度の実現が未だ叶っていないのも、勘定「数字」的なマイナスがプラスを上回るから、もしくはプラスが現状さほど高く見積もられていないからではないかと、私は思います。逆に、例えばコロナ禍の個人及び企業への支援・給付金制度が非常に迅速であったのは、個人の廃業や企業倒産による経済損失予測が国にとって甚大で緊急課題であったからだと考えられます。その節は、制度を利用させていただき、弊社もお世話になりました。



つまり、なにか経済的に動きがあれば、政治のキャンペーンはいつでも変わる可能性があるということです。今はたまたま労働経済でもダイバーシティを唱えていて、人権志向と重なることを理想としている。けれども、またいつ「女性は家庭へ帰れ」「男性は献身的に働け」もしくは別の偏りある動きとなるかわからないのが、微妙なところです。




頭の隅に置いておきたいこと


昭和の時代と比べ経済成長の停滞のほか少子高齢化も深刻化し、たとえば現在女性という存在は、子どもを産み育てることも、潜在的な労働力として見込まれ、社会で活躍して経済の活性化へ繋げることも、同時に求められています。そのためのスローガンのひとつが「女性が輝く社会」(2015年以降)です。


このようなスローガンを耳に入れることはするけれども、100%人権ベースのメッセージではない、という意識が必要であると思います。女性が輝くべき…それはかつての「男性はみな企業戦士」(高度経済成長期~バブル崩壊まで)のようなキャンペーンであって、決して「普遍的な正しさ」「個人ベース」ではありません。その上、本当に会社のために私生活を犠牲にするほど尽くして、けれど結局リストラをされて人生そのものに困難を強いられた人たちがたくさんいたように、未来はわからないし、なにも保証はありません。



あらためて人権目線のダイバーシティ


人権目線でいえば、結婚をするしない、子どもを持つ持たない、またどのように生計を立てるか等を含め、自分はどう生きるかの自由と尊厳を包括的に守るのが、人権目線のダイバーシティです。個人的には、自分が自らの特性や才能を活かすようにして生きようとする限り、自分で感じ考えて尊厳を求めながら自立的に人生を編んでいく限り、社会はそれに対応するように変化していくし、その流れが他の人々にとってもより良い社会を作っていくのだと考えます。その連続が多様な人の生きやすさになり広がっていく。前回最後に書いたような「人権は限られたパイを奪い合うもの(二律背反)ではなく、増やしていくもの」「人間平等」の実践意識です。



では、自分の人権(自由や尊厳)を意識して、自分らしく生きようとすることは、わがままなのか?迷惑なのか?集団に合わせることが「正しい」のか?…



「それは社会のために人がいるのか、人のために社会があるのか」という問いにも繋がります。国連加盟国(世界人権宣言に賛同)であり、民主主義社会である日本は、表向き、後者です。



答えのないことだけど、向き合ってみる


しかし、日本の歴史や文化を考えると、実際の状況は少し複雑です。日本は万葉集の時代より社会より個人より「世間」を優先させるとも言われています。(阿部謹也「世間とは何か」1995)


ある政治家による「わきまえる」という言葉が少し前に話題になりました。私にとっては、聞くと胸がモヤモヤするような言葉です。そこには、大多数(もしくはルールを作る人)のための枠組みの重視、世間が大事であるとか、社会のために人がいるのだ、あるいは人は平等でないのだ、というメッセージが隠されているように感じます。そこで何も考えず素直に「わきまえ」て良いのでしょうか、自分の自由や尊厳をないがしろにしてまで、守るものとは一体何でしょうか。その場の「和らしきもの」や空気を読むことで私たちが失ってきたものはないでしょうか。



自分の自由と尊厳を求めながら、独りよがりではないこと。つまり、それぞれ違う多様な個々と全体が共生共存にある状態。

果たして可能でしょうか?



個と集団の関係性は歴史の中でずっと議論されてきたくらい、「(二元論の)論理的には」難しいことなので、私はここで頭だけで考え過ぎるのをやめて、思い切って自分の体・五感を意識して、山や森や木や、周囲の自然に目を向けることをおすすめしたいと思います。ある自然の風景を、禅の言葉から引用しますので、良かったらぜひ、四文字から風景を想像してみてください。




「柳緑花紅」 (やなぎはみどり、はなはくれない)



柳は緑色、花は紅い、松は曲がり、竹はまっすぐ生えているというように、自然の中ではそれぞれ「自分らしく」生き、しかし互いに(昆虫を媒介したり土壌を作るなどして)生存について影響しあっています。柳が柳らしく、花が花らしくあるということが、互いの必要性や貢献、全体としての共生を生んでいます。自分の価値に否定的になって花を咲かせないとか、緑から赤になろうとして混ざって黒色になってしまうとか、「自分でないものになろうとすること」こそが、個人の尊厳を失い、さらには共存共栄のつながりを断ち切ることになります。



自分が「自然体」であるということ、自身の心(体)の声に従い、緑として赤として自立しようとすることが、自然をみれば他者との繋がりや貢献にもなる。全体としての調和となる。


自然と調和して生きていたとき、人間がもともと持っていた感覚、しかし産業革命時代、経済成長経てより高度な資本主義社会になり、マルクスが資本論(1867)で警告したような「自然の資源の搾取」「価値やお金に振り回される」「頭を使いすぎる」そして「白か黒か、0か1かの二元論で判断する」につれ、失った「自然感覚」「多元論」というものが、私たちにヒントをくれるのではないかと、私は感じています。



考えてみてください


「人のための社会か、社会のための人か」の二元論ではなくて、それらが同時に存在しているようなイメージ、もっと立体で多元的な考え方です。これは完全に私の私見ですが、自分ではスッキリするので、こう考えています。


個人個人を大切にする人権的ダイバーシティを実現しながら、経済も動き、社会も調和をもって存在する状態。どうやって実現していくのか?


決してひとつの決まった答えはないと思います。みなさんはどう考えますか?




(第6回へつづく)


参考資料

学校法人慶応義塾「精神疾患の社会的コストの推計」(2010)

各種厚生労働省ウェブページ







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