これまで政治経済、労働からみるダイバーシティについて書きました。今回からは人権目線のダイバーシティを、政治経済との両輪の片方として述べます。
<人権(基本的人権)とは>
人間が人間として当然もっている基本的な権利。近代初頭では、国家権力によっても制限されえない思想の自由・信教の自由などの自由権を意味したが、20世紀になって、自由権を現実に保障するための参政権を、さらに国民がその生活を保障される生存権などの社会権をも含めていう場合が多い。日本国憲法は、侵すことのできない永久の権利としてこれを保障している。人権。基本権。(デジタル大辞泉)
人権のことを語るとき、決して欠かせないのが「世界人権宣言」です。
現代人権法の基礎であり柱である、現代社会にとても重要な条文です。国連が創設された3年後の1948年の12月10日(のちに世界人権デー)に公布され、多くの新しく独立した国は、基本法もしくは憲法の中でこれを引用したり、規定を組み込んでおり、「宣言」ではありますが「法」と同じ重みを持っているとされるくらい、生きる人間…私たちにとって必要不可欠なものです。
30条の中で市民的・政治的・経済的・社会的・文化的権利と、権利が実現されるための権利が書かれていますが、以下の有名な書き出しを読めば、学校で習った記憶がよみがえる人も多いのではないでしょうか。
(第一条)すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
(第二条の1)すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/universal_declaration/
この「世界人権宣言」は、私にとって、とても思い入れ深い特別なものです。あらためて上のリンクから読んでみていただきたいのですが、私はこれらの条文を読んでいくと、「ああ、自分は自由なんだ、それでいいんだ…」と、何かに全肯定されているような、守られているような、あたたかくて泣きたいような気持ちになります。
そして同時に、人権がなければ、牙も毛皮も持たないひとりの人間は、まるで無防備で無力で小さい存在だと、実感せずにいられません。
人権感覚が人間を人間たらしめ、暴力ではなく理性と思いやりでもって世界を共に生きられるのであり、この人権を守り実現するため、私はフィンランドで学び、ソーシャルワーカーの資格が与えられたと考えています。そして現在の職業はソーシャルワーカーではありませんが、人権保護と、人が人として享受できる幸福のためにはどうしたらいいのかを、個人や企業さまとの仕事の上で、自分が創るものの中で無意識ながら重要視しているように思います。(決して、まだまだ立派な人間ではないのですが。)
人権目線のダイバーシティとは
人が人であること。自分という存在。この世に生まれたとき、人はいつ、どこに、どういう状況で生まれるのか、能動的に選んで生まれては来られません。「生まれる」は日本語でも英語でも、受動態です。
性別も、生まれる年代も、地域も、人種も、性別も、病気や体の状態も、どういう経済状態の家庭に生まれるのかも、それを必然受け入れながら与えられた生を生きていく必要がある。けれども、どんな条件を持って生まれたとしても、生まれた限り、誰もが自由に幸せにその人生を生きる尊厳と権利があり、その権利をひとりひとりがかならず持っているという意味で、人は平等である。これが私の考える人権と平等です。
目指すところは「人間平等」…ひとりひとりがその人生を、どんな条件で生まれたとしても、尊厳をもって自由に幸せに生きられること。これは私が「世界人権宣言」を読んだうえで、留学時代から個人的に強く信じていることのひとつです。
そして、「人間平等」は人権目線のダイバーシティです。あらゆる条件、属性をもつ全ての人が、互いに関わり尊重し合いながら、自分らしく幸福にいきられること。そして社会としても、良い社会となること。
人がそれぞれ生まれ持った条件は、性別だけでなく、国籍、宗教、人種、経済状況、生まれた年代、性格、能力、身体的特徴、性的指向…ひとりの人間を構成する要素(属性)は多様であり、それぞれ内部でつながりあい影響しあっています。その多様性を内包しながら、ひとりひとり生きていく。
人権の反対とは…
そして人権の反対語、というか反対の状況は何かというと、個人的には「差別」であるかと思います。そして差別は、「属性」に対して起こります。まさに上にあげたような、国籍や人種、性別、宗教、障害、年令…など。国連が創設初期に取り組んだ大きな仕事がアパルトヘイトや人種差別問題であったように、つまり偏見や差別があるから、不平等があり、幸せに生きる権利や尊厳が侵害されている。大きな苦しみがあるから、人権を守ろうという動きと繋がっていくのですね。
ですから、そういうものだから我慢すべきと抑えるのではなく、「ここに苦しみがあるよ」「不平等があるよ」「人としての権利が阻害されているよ」と“自分自身の感覚から”世間へ伝えることは、同じ属性や苦しみをもつ人々や後輩たちのためにも、人権の目線ではとても大切です。
そして、いずれの場合にも、「人間平等」(人権目線のダイバーシティ)の感覚を忘れずに持っておくことが非常に重要だと考えます。たとえば、二律背反的に、女性の権利が阻害されているから男性を攻撃するのではなく、男性の権利が侵害されているから女性を攻めるのではなく、人間平等を最終的に目指すゆえに、今そこにある理不尽や不平等を指摘すること。あくまでひとつ上の次元にいるかのように視点を高く持ちつづけることが、あらゆる人のための平等の実現につながるはずです。
そうでなければ、人権がまるで「奪い合い」で得るような限定的なものになってしまい、増えていきません。おなじ人間同士、他者攻撃で得られる人権というものはありません。
攻撃をともなわない、包括的な活動や対話が人権目線のダイバーシティを可能にするのだと、そうあってほしいと、私は考えます。
みなさんはいかがでしょうか。
(第5回へ続く)

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