【コラム:D&I】誰もの自分ごとにするために…D&IとSOGI(3)


ほんとうのD&Iで考える


ここで今回の本題ですが、取り組むこと、行動を起こすこと。企業価値のためであれ人権目線であれ、「動く」ということがとても大切な大前提としつつ、しかし本当のD&Iにとっては課題となりえることが、実はアライの人々の発言からたまに見受けられる、と私は感じています。


それは、「自分は当事者ではないから…」という遠慮(のようなもの)です。

「自分は同性愛者ではないから、彼らの苦しみはわからないけれど…」とか、

「私は当事者の人ほど大変ではないから…」、とか、優しさを含みながらも分断がそこにはある。こちらとあちらを分けているわけです。


性のありかたは、あくまでひとりの人間の中の多様性のひとつでしかありません。発達心理学上、ジェンダー(性別)やセクシュアリティ(性)は自我の形成にとても影響力が強い要素ではありますが、しかしそれがその人の全てを表すわけでもありません。


どこで生まれたか、国籍や信教や、学歴や、趣味や好きな言葉やこだわりや特技や、そういった構成要素のひとつで、「性的マイノリティである」という要素と、その他のいろいろな要素を包括している一個人は、イコールではないわけです。



例えば私は社会的性別は女性で40代ですが、それが私という人間の個性の全てを表すわけではありませんし、決して女性代表や40代代表でもありません。

妊娠や出産について「女性としてどう思いますか」、聞かれるときと、「おおばやしさん個人はどう思いますか」、と聞かれるとき、少なくとも私は回答にズレが生じます。



他の例でいえば、「女性(男性)は大変だから…」と男性(女性)に言われるときに、本当ならもっと人としてわかりあえそうなのに、なにか越えられない壁を感じてしまうように、互いに個と個として認識・尊重しあう多様性実現の機会を、損失しかねないと感じています。




アライ的活動は決して、わかりやすく性的マイノリティのためだけのものではありません。「彼らは大変だから…」という気持ちは理解できますが、やはりそれを言い続けてしまうことは、一種の壁づくりになるはずです。前々回の話題でも書きましたが「人権は限られたパイを奪い合うもの」ではなく「増やしていくもの」です。



彼氏・彼女という言葉を使わない、恋人の有無や結婚や出産について無遠慮に立ち入った話をしない、生まれる子供の性別を気にしない、着ている服で批判や決めつけをしない、女性らしさや男性らしさを安易に押し付けない、相手の性にまつわる個人的なことを勝手に暴露せず、尊重する… というアクションは、マイノリティであると自認していない、ストレートの方にとっても、「気づかず押し付けられていた」性別にまつわるストレスのようなものから解放される機会でもあります。



視点を変えれば、誰もが広く当事者である


LGBTQ+とはつまり、性別や性にまつわる「普通・当たり前」に苦しめられている最たる人々でありますが、例えば「女性らしさ」「男性らしさ」という抑圧や偏見を受けずに生きられる人は、社会にはほとんどいないでしょう。つまり、ジェンダーの偏見は重さの差はあれ「自分ごと」です。



男性なら強くなければいけない。男外で働いて稼がなくてはいけない。性的なことに興味があって当然。女性を好きで当たり前。…


女性は優しく控えめでいなければいけない。家事子育てができて当たり前。恋をするのが当たり前。男性を好きで当たり前。…


 

着る服や持ち物の色、好きなレジャー、好む作家、趣味、生き方のプランまで、見返してみると、男性的である、女性的であるという二極の価値観や偏見がついてくるものは身の回りにたくさんあります。それが、たまに「モヤっ」という感覚で自分に起ったりするのですが、その時はまず「自分の自然体とは違う”ふつう”を押し付けられている感じ」であることがほとんどでしょう。



現在そういった、ジェンダー役割や性にまつわるハラスメントをSOGIハラともいいますが、LGBTフレンドリーであろうとすることは、SOGIハラを防止したり、ストレートの人もプレッシャーから解放されたりということも内包します。ひとつのアクションの影響は、決してそのものに限定してではなく、繋がり広がるということです。



たとえば、私は聴覚障害は持っていないものの、「聴く」ことにやや苦手があり(音自体は聞こえても単語と結んで認識できない時があります)、ドラマや映画は字幕をつけないとうまく内容をつかめず、字幕なしでは相当集中しなければ頭に入ってきません。


テレビに字幕がつけられるようになったのは、聴覚障害を持つ方々のためがメインの目的ではあったのですが、結果私のような人、高齢者、日本語が母語ではない人、脳が視覚情報優位のタイプの人、内容をしっかり得たい人、その他様々な人にメリットをもたらしています。


段差を減らすバリアフリーも、駅のエスカレーターやエレベーターも、体に不自由がある、とは言い切れない人にとっても役立っているように。実行してみると、影響を受ける当事者は、強さの差こそあれ、山の等高線のように段階的に広く裾野まで広がります(添付の図①)。





アライ活動はとても必要なものです。また女性管理職を意図的に増やすといった政治的施策のように、構造的な差を埋めるためのアクション(アファーマティブアクションともいいます)も必要ですが、あくまでプロセスであり、それぞれ最終的に誰もの生きやすさや社会的価値に波及するイメージです。



誰かのためになることが、誰かのためにならない(結局は限られた利益の奪い合いである)という、わかりやすい二元論の状況を想定され議論されることはありますが、そこはぜひわかりやすさに負けず、視点を変えて、上から俯瞰で見るなどしてみると、実はものごとは繋がっているのだという別の気づきがあるはずです。

 


わかりやすさを超える


人間の脳は0/1の二進法で、白/黒、善/悪、正/誤、上/下、左/右、男/女、…という二次元で情報を処理します。しかし実際多くのものごとはきっちり分けることのできないグラデーションであり、三次元以上です。


例えば脳をMRIで分析しても、その人が女性であるか男性であるかは、最新科学でも断定できません。ほとんどの人が部位的にどちらの要素も含み、割合も法則をみつけられないため、再現性がないそうです。男性とは何か、女性とは何かすら、実ははっきりとはわからない、多重でありグラデーションである。


「普通 / 普通じゃない」という見方において、多くの人にとって”はじかれてしまうかもしれない”部分があるように、多元世界を脳のわかりやすさのために無理に二元化することで、誤解、取り残しや阻害…エクスクルージョンを生むことがあります。  




LGBTQ+の人の中には、「別に(ストレートの人たちに)理解してもらおうなんて思わないし、何もしなくていい、放っておいてほしい」という人もいます。属する部分が一緒だからといってみんながみんな同じと言い切れません、女性の権利に興味がない女性がいるように。あくまで、マイノリティだから…その属性の人だから…ではなく、その要素があったとしても、最終的には個人、その人レベルでの尊重が必ず大事になっていくでしょう。



そういう視点では広く誰もが当事者で、みんな、ひとりひとりそれぞれ多様な人間であるという感覚、人間平等を目指す、人権感覚の意識がキーです。


段階的にexclusionからinclusionを表す図(添付②)があるのですが、それぞれを右からプロセスとするならば、今の日本社会はおそらくseparationとintegrationの間くらいではないかなと思います。





つまり前々回解説した①「いてもいいんじゃない?」というタイプの課題と、前回の②「自分は当事者ではないから…」タイプが両方あるイメージです。ただこの段階だと、inclusionには及ばず、分断があり、全ての人が個として尊重されている(人間平等)とは言い切れません。



本当のD&Iは、『自分自身も含めた』包括的なものです。一方的に「立場Aから立場Bのものへ与える」ものではありません。


Inclusionは、他人事だけでもなく、まず自分ごとであって、自己認識と自己尊重がまず大切であり、その後他者、全員の権利の尊重、人間平等に至るとも言えます。



では、誰もが自分と他者を尊重でき、自然体で内包されており、内部分断が無いinclusionの状態にするにはどうしたらよいのでしょうか。


 

個人的な思いをいえば、私のこの二次元で処理する脳では、解決法は次元レベルで思いつけないものなのかもしれません。平等や本当のD&Iを目指すなんて、人間自身には無理なのかもしれません、でも今ここにつらい思いをしている人がいて、何もせずにはいられない… とここ数年感じてきました。



そんなモヤモヤを経て、性のことに限らず、全ての要素について、まず自分で自分を認識・理解してもらい、やがてほんとうのD&I、人間平等につなげていきたいと、(次元を超えようとしたために)私はたとえばソジテツ®や哲対話を開発しました。


しかしそれも、多様な解のうちのひとつでしょうし、多くの人が創造的に考えることで、あるいは時間をかけて段階的に、「何か」が見えてくるかもしれません。



ひとつの正解がない時代に、二元論のわかりやすさに負けず、考え続ける・行動し続けることこそが、地道であるけれどもっとも近道なのかもしれません。




(第4回につづく)